池上さんが世界を変えた古典として紹介した本。
第三回は1904年に発表されたマックス・ウェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 。
池上さんが解説した内容を紹介します。
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「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、資本主義経済に宗教的影響があるのではないかということを分析した一冊です。
マックス・ウェーバーはプロテスタントの人達、あるいはプロテスタントとして生まれ育った人達について、どうも経済が上手くいっている傾向があるということを分析したのです。
今回の池上さんの解説ではそこのところを考えていきます。
さて、ここで一つ問題。
ヨーロッパでは2013年ごろに経済危機と言うものがありました。その際に経済的に危機を迎えた国の頭文字をとって「PIIGS」という「豚」のスペルを少しもじったような侮蔑的な言い方が成されました。
この国を全て言えるでしょうか・・・?
答えは
P:ポルトガル
I:アイルランド
I:イタリア
G:ギリシャ
S:スペイン
ユーロを共通通貨として使用しているヨーロッパの国において、相次いで経済的危機が起こりました。
では、この国々に共通するものは何かわかるでしょうか・・・?
この問いに対する正解は、「プロテスタントの国が入っていない」ということになります。
アイルランド、イタリア、ポルトガル、スペインはカトリックであり、ギリシャはギリシャ正教・・・つまり東方正教会なのです。
キリスト教はパレスチナの地で始まった宗教ですが、それは後にローマ帝国全土に広がり、長い歴史をかけて3つの派閥に分裂していきました。
詳しくはこちらの記事を参照ください。
この上記の記事にも少し書かれていますが、プロテスタントが生まれたのは、「宗教改革」として歴史に残っている出来事によるものです。
当時カトリックであったローマ教皇は贖宥状(免罪符)というものを売って、それを買うことによって救われて天国に行けると語っていました。その背景には当時サン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂を創設したかったと言うものがあります。
ペテロはキリストの一番弟子であり、ローマにキリスト教を広めようとして処刑されてしまった歴史を持っています。しかし皮肉なことにその後ローマ帝国はキリスト教へと変わっていくのです。
そんなペテロの墓の上に建設されたのが「サン・ピエトロ大聖堂」。
もうここまで書けばわかると思いますが、つまりはこの建設費用が欲しかったのですね。宗教というのは教会に寄付をすることも善行に入り、それだけ熱心に神様を信じているいる証拠となり、罪が清められ救われるという考え方をします。
だから贖宥状を買いなさい・・・それによってサン・ピエトロ大聖堂が建設されれば、それは善行にみなされるから天国に行けるのですという教えをするのですね。
こうなると当然、不満を漏らす人も出てくるのは当然のことかと思います。
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予定説
そこで登場してくるのが、ドイツの神学者であるマルチン・ルターとフランス出身のカルヴァン。この二人を中心にして宗教改革が行われました。
ここで面白いのが、ローマカトリックが説いてきた贖宥状のように、善行をすれば救われるという教えに対して、カルヴァンは神と言う存在は絶対的なものであるから、人は生まれながらにして救われるかどうかは決まっているんだという「予定説」を説きます。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者であるマックス・ウェーバーはこのカルヴァンの教えについてこう記述しています。
この悲壮なまでに非人間的な教説は、その壮大な帰結を受け入れた世代の信徒たちの気分に、極めて大きな結果をもたらすことになった。
人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなけれなならない(中略)他の誰も助けてはくれないのである。
牧師も彼を助けることはできない。(中略)
どんな協会も助けてはくれない。
ここにおいて、世界を呪術から解放するという宗教史の偉大なプロセスがついに完了したのである。
(中略)神が救済を拒むことを決意した人間に対して、神の恩寵を与えることが出来る呪術的な方法など存在しえないし、そもそもいかなる方法によってもこれは不可能なのである。
非人間的な教えと表現しています。人間は自分の道をひたすら孤独に歩んで行かなければいけないという「個人主義的な考え」もこのプロテスタントから生まれていく運びとなりました。
さらに「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から引用します。
カルヴァン派の信徒はつねに、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、自らをたえず吟味し続けることで、救いを作り出すことが出来るのである。
信徒たちは、自分が選ばれたものだと信じることが絶対の義務のとみなし、そのことに疑いを持つことは悪魔の誘惑として退けるよう求められた。
自己への確信のなさは信仰の不足を示すものであり、恩寵の働きの不足によるものだとされたのである。
こうした自己革新を獲得するための優れた手段として、職業労働に休みなく従事することが教え込まれたのである。
この職業労働だけが、宗教的な疑惑を追い払い、恩寵を与えられた状態にあるという「救いの確証」をもたらすことができるのである。
当時、カルヴァン派では職業はベルーフ、つまり天職と示され、神様から与えられた使命という風に捉えられていました。そのため、その仕事に邁進してきちっとこなしていくことができれば、自分は神様から選ばれたということが確認できるのではないかということになるのです。
こうしてプロテスタントは一生懸命働くようになり、資本主義経済の発展に大きく貢献していくようになるわけです。資本主義については以下の記事を参考しするとわかるのですが、「労働力」と言うものが非常にキーになってきます。
その点をウェーバーは以下のように記述しています。
倫理的に見て否定する必要があるのは、信徒たちが所有によって安息してしまうことであり、さらに富を享受することで怠惰や肉欲という帰結がもたらされるということ、(中略)財産を所有することが、このような安息をもたらすからこそ、いかがわしいと判断されたのである。
というのは「聖徒の永遠の憩い」は来世において与えられるはずのものであり、地上において信徒たちは、自分が救いの状態にあるということを確証するために、「昼間のうちは、彼を遣わされた方の業をなさねばならない」のである。
時間を浪費することは全ての罪のうちでも第一の罪であり、原則として最も重い罪でもある。
労働の意欲に欠けているということは、恩寵の地位が失われていることを示す兆候なのである。
財産を持つ人も、働かずに食べてはならない。
それは「財産があれば」生きるための必要を満たすために労働する必要はないとしても、「働けという」神の命令には貧者と同じように従わなければならないからである。
天国に行けばいくらでも休息できるのだから、現世においてはいくらでも働きなさいという教えをカルヴァン派は受けるのです。
資本主義が発展していくには、資本の蓄積が非常に重要になって来ます。
つまり、たくさんのお金があれば新しい工場を作り、たくさんの労働者を雇い、それによって新しい商品を作り出すことが出来て、新しい事業を展開することができます。
こうした資本主義の発展とカルヴァンの教えの相性がいいことはわかりますでしょうか。
お金を稼いでも稼いでも満足をしないために、資本の蓄積が可能になり、大きく経済が発展していくということになるのです。ここをマックス・ウェーバーは結び付け、プロテスタントの考え方があるから経済が発展していったという分析を行っているのです。
その点、カトリックではどうなのかと言うと、お金を稼ぐことによって余裕のある暮らしができる場合は、そのお金は「善行」として教会に寄付されていきます。資本の蓄積はされずに、贅沢で豪華な協会が増えていくのです。
そのため、ヨーロッパ諸国を回っていろんな教会を見渡すと、どれがカトリックでどれがプロテスタントであるのかということがわかるようになっていきます。
しかし、資本主義というのはまた、発展すればするほどに経済的な格差が起きてくるというのも事実。
次回は、その経済格差について、資本主義経済が発展するプロテスタントではどういう状況になっているのかなどを紹介していきます。

いやー、個人的に非常に面白い回でしたね。笑
カトリックの反対勢力としてプロテスタントが登場した歴史は知っていましたが、ここまで考え方に違いがあったというのは知りませんでした。
ある意味宗教としては破綻しているような考えを持つカルヴァンの思想から生まれたというのは興味深いですよね。
今世において、自分が救われる人間なのかどうかがわかるには、まずは勤勉に働き、その結果によって分かってくるという捉え方ですが、もしも一生懸命働いた結果、上手くいかなかったりお金が入ってこなかったりした人というのは、それに加えて地獄行きが決定することになるため、絶望すぎるような気がします。笑
裕福になっても勤勉に働き続けるという教えだから、いくら貧困になっても、いくら上手くいかなくてもやっぱり働き続けるのでしょうね。
そのモチベーションが続くというのはある意味ではうらやましい限りですが・・・。笑
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試験の際に触れる内容でしたので、解説大変参考になりました。
ありがとうございます!